アウグスティヌス

あなたは私たちを
あなたに向けて造られ、
私たちの心は、あなたのうちに
安らうまでは安んじない。

Augustine[354-430]
異教徒の父と敬虔なキリスト教徒の母の間に生まれた。32歳のとき、キリスト教へ回心し、翌年洗礼を受ける。生まれ故郷に近い北アフリカのヒッポで司教を務め、初期キリスト教の理論化に大きな役割を果たした。

 人間は天と地に引き裂かれた存在である。魂は天上を求めながら、体は地上にあるからだ。天(私たちが仰ぎ見る天ではなく、時空を超えた「天の天」)とは神の存在する場所であり、地とは「土の塵(ちり)」、すなわち虚無である。最初の人間アダムはこの「土(アダマ)の塵」から神によって造られたとされる(「創世記」)。
 それはそのまま、私たちの魂と肉体の対立――魂が肉体に勝利するのか、肉体が魂に勝利するのか――に置き換えられる。肉体の欲望に縛られた人間は生まれつき罪深い(原罪)。人間は欲望に打ち克ち、己を支配して、神のほうに向け直さなければならない。それが回心である。
 アウグスティヌスがとりわけ苦しんだのが己の情欲であった。彼は一子をもうけた女性との14年間の同棲生活の後、家柄のよい10歳の少女と婚約したが、結婚年齢に達するのを待ちきれずに、また別の女性と関係を結んでいる。神の存在について確信していたにもかかわらず、彼の回心を妨げていたのは、色欲の捨てがたさであった。アウグスティヌスは神に向かって「貞淑と節制を与えてください。ただし、いますぐにではありません」と述べている。
 しかし、その時は突然やってきた。回心の場面はなかなかドラマチックである。

「もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまではないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりではないのですか。」わたしはこのように訴えて、わたしの心は苦しい悔恨のうちに泣いていた。すると、どうであろう。隣の家から、男の子か女の子かはしらないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、「取って読め、取って読め」と何度も繰り返していた。……それでわたしは溢れ出る涙を抑えて立ち上がり、わたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。……わたしはそれを手に取ってみて、最初に目に触れた章を黙って読んだ。「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉(ねた)みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない」。……この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた…。(「告白」)

 マニ教、占星術、アカデメイア派の懐疑論、新プラトン主義など様々な思想的遍歴をへて、最後にたどり着いたのが幼少のみぎりに母から教えを受けたキリスト教であった。『告白』における半生の回顧(第1巻~第9巻)が、故郷に帰る途上で死を看取った母への賛美で終わっているのは至極当然である。続く第10巻の記憶論、第11巻の時間論は、後世の記憶論、時間論に多大な影響を与えた。

告白(上・下)
聖アウグスティヌス/服部英次郎訳(岩波文庫)
告白とは罪の懺悔であると同時に神への賛美でもある。図らずも本書は史上初の自叙伝にして、「私」について語る数多の告白文学の嚆矢(こうし)となった。